/*
     歌う医学博士・Hideが行く
                        */

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  総集編3.ボサノヴァ講座・特別編(完全版)
        (ジョアン・ジルベルト初来日公演のレポート、
          ’04年9月15日 パシフィコ横浜にて)
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今回は、Vol.69から7579から82、そして8587の内容を、ブラッシュアップして
一つにまとめておく(ジョアンについては、僕のHP

http://www.helio-trope.com/

の、「メールマガジンバックナンバー」の、「Vol.35. ボサノヴァ講座・初級編
(完全版)」
をご参照頂きたい)。


但し、ただのコンサートレポでは面白くないので、家を出てから帰るまでを書いてみたい。
ピュアなコンサートレポは、もっとブラジル音楽を知っている人にお任せする。

ではスタート!


9月15日。

朝9時半頃目が覚めた。南海高野線で難波、地下鉄で新大阪へ行き、10時20分台の
「のぞみ」に飛び乗った。

僕は弁当が余り好きではない。だから新幹線の食堂車が廃止されたのは、本当に残念だ。
やはりのぞみが出来てから、あの列車は単なる移動の手段になってきたのだろう。
哀しい事だ。

1時半頃、新横浜に着いた。

新幹線からは、富士山はふもとの方しか見えなかった。雲が多かったせいだろう。

そう言えば「東大一直線」で、東京に受験に行く時、富士山が見えたら落ちるという
ジンクスがあると書いていたのを思い出した。

僕も東京のS大学の医学部を受けたとき、一次試験では富士山が見えなかった。
一次は通ったのだが、二次試験のとき逃げもかくれも出来ないくらいに富士山が見えて、
結局第一補欠だった。まあ単に、実力がなかっただけなのだろう(笑)。

ちなみに車内では、ビールを1リットルしか飲まなかった(笑)。何せこれからジョアンを
観るのだから、酔いつぶれてしまっては困るのだ。

新横浜からJR根岸線で、石川町まで行った。横浜マリンタワーに登るためである。

途中電車の中から、ステーキハウスのTGIフライデーズが見えた。グアムで入ったのを
思い出した。さすが国際都市だと思った。

石川町から中華街を左手に見て、マリンタワーまで約1.2キロを歩いた。
横浜に抱いていた、きれいなイメージが狂った(なにせかの、「エースをねらえ」の
舞台なのだから)。これなら大阪と、余り変わりないと思った。

そう言えば森前首相が、「大阪は痰つぼだ」と以前言った。

これについて中島らもさんが、こう言っている(以下「引用」(細部は違っているが
悪しからず))。

>大阪痰つぼ論。いやあ、言い得て妙である。
>しかしそれは、大阪の人間が、自分で言う場合である。
>例えばの話、「うちの女房はブスでねえ」と言う人はいるかも知れないが、
>「お宅の奥さんはブスですな」と言う人は、少なくとも普通の大人にはいない。
>そういう事は「余計なお世話」であり、言わないのが「大人の礼節」というものだ。
>どうもこの森さんという人は、人間性が少しおかしいのではないかと思う。

(「引用」終わり)

森さんと中島さんのどちらが正しいかは、読者の皆さんのご判断に委ねたい。

話を元に戻そう。横浜人形の家を横目に見ながら、次に来た時に取っておこうと思いつつ、
横浜マリンタワーに登った。

マリンタワーは開港100周年を記念して建てられたらしい。地上106メートルの高さは、
灯台としては世界一だそうだ。

展望台からの眺めは、なかなかよかった。足元には横浜の顔(だそうである)山下公園、
左手にはかのランドマークタワー、右手にはハマコー氏で有名な、かのアクアラインが
見えた。今は亡き、旧軍人から国会議員になられた、源田実さんの言葉を借りれば、
万里の長城と、戦艦大和と並ぶ3大...である(これ以上は言わぬが花だろう)。

観光に当たって、まずその街を俯瞰するというのは、なかなかいい方法ではないだろうか。
そう言えば「サイパン観光界の風雲児」と呼ばれる人がいて、その人が
「まずバンザイクリフを観てそれからデューティーフリーといった、手垢のつき切った
コースではなく、自分のツアーは高い所から、まず島全体を見せる」みたいな事を
言っていたのを思い出した。

マリンタワーを降りると、併設の機械じかけのおもちゃ館がタダで観れたので、
ざっと観て歩いた。まあ悪くはなかった。

おもちゃ館を出て、山下公園を歩いた。とにかく日差しがきつくて、
素肌に半袖ポロシャツとGパンだったのだが、結構暑くて汗をかいた。
ミネラルウオーターを飲みながら歩いた。

山下公園内に、氷川丸という昔の大型客船が、今は博物館になって係留されている。
全長163メートルで、「太平洋の女王」と異名を取ったらしい。処女航海は
1930年で、かのチャップリンや柔道の嘉納治五郎さんも、乗った事があるそうだ
(嘉納氏は航海中、船医に看取られつつ病死したらしい)。

機関室では、ディーゼルエンジンを見ることが出来る。それは圧巻だったが、
船内をもう少しきれいに掃除してもらえないものだろうかと思った。まあ外気に対して
開けているわけだし、止むを得ない面もあるだろうが。

三等船室のあたりで(3段ベッドだったかが二つ置いてあった)、老婦人が3人ほど、
「船室ってこんなんやったね」みたいな事を話していた。

「この船に乗られたんですか?」と訊くと、「この船とは違うけど、ブラジルまで行ったよ」
との事であった。ジョアンを観に行った日にブラジルとは、なかなか奇遇だと思った。

氷川丸には、かの沖縄アクターズスクールの分校?(支部?)もある。
きっと、明日の安室奈美恵女史やスピードを夢見る女の子達が、頑張っているのだろう。

かなり長い巡回コースをめぐってから、氷川丸を出た。

山下公園を西に抜けて、横浜公園へと南西に歩を進めた。途中で屋台の、
150円也のコーンつきのアイスクリームを買った。まあこんなもんだろうと思った。

そのあたりに、全部英語の看板の店を見た。さすがは港町だ。

横浜公園は、1876(明治9)年に開園した、日本人が利用できる最初の
洋式公園だそうだが...、まあただの公園だった。時間を損したと思った。

横浜公園内には、かの横浜スタジアムもある。外壁を見ながら、関内駅へ急いだ。
ちなみに横浜ブルーウエーブの、ウッズとか言うホームランバッターが
フリーバッティングをする時、余り場外が多いのでスタッフが外で待ち構えているという
話を、後日テレビでやっていたが、そのときあの外壁が映っていて、とても懐かしかった。

関内駅への道のりが遠いのと、時間が気になるのとで、電車は断念してタクシーを拾った。
「ランドマークタワーまで」と行き先を告げた。

降ろされた所から、タワーの入り口まではえらく遠かった。もう少しアクセスを
良くして欲しいものだと思った。

エレベーター乗り場は、とても懐かしかった。実は僕は、7年前にも
ランドマークタワーには来た事がある。「B病院」にいた頃だ(僕のHP

http://www.helio-trope.com/

の、「メールマガジンバックナンバー」の、Vol.11(「某政党系の病院」の事だ)、
Vol.12.、Vol.15. とVol.16. あたりを乞うご高覧)。この病院は、給料は安いが
その代わり、学会にはアシマクラと日当付きで行かせてくれた。その病院では僕は
消化器グループ所属だったので、今回の会場であるパシフィコ横浜で、
国際内視鏡学会だかに出席した時、学会を抜け出して登りに行ったのである。

列に並んで、エレベーターに乗り込んだ。

ランドマークタワーの展望フロアは、地上273メートルと日本最高だそうだ。
80キロの遠くまで見渡せるらしい。

エレベーターは、最高分速750メートルで(これは世界最速だそうだ)、
40秒間動いた。そして僕を、展望フロアに連れて行った。

展望フロアからの眺望は...、

やはり圧巻だった。これこそ横浜ミニツアーの、フィナーレにふさわしいと思った。
もちろんマリンタワーからの眺望も悪くはないが、はっきり言ってケタが違う。

回りのビルの屋上が全部見えた。その多くにはヘリポートがあった。
全て7年前のままだった。

バーでスクリュードライバーを買った。 余りウオッカを使っていないように思った。
グラスを片手に、ぐるりと観て回った。

景色を見飽きるまでいた。ランドマークタワーを出ると、コンサートの開演まで
時間がなかったので、日本丸を横目で見ながら、次は必ず行こうと思いつつ、
パシフィコ横浜へ急いだ(結果的には、断念する必要は全くなかったのだが)。

ちなみに日本丸は、戦前・戦後を通じて実際に活躍していた航海練習船で、
今も年10回くらい、総帆展帆(全ての帆を広げる事)が行われているらしい。

ランドマークタワーからパシフィコ横浜までは、ほとんど屋根の下で行ける。
会議場では、何か内科系の学会をやっていた。B病院にいた頃の事を思い出した。

最後に少しだけ、日の光を浴びる所があった。道端で誰かがギターを弾いていた。
階段を降りて、ホールの入り口に急いだ。

ロビーに入ると、売店に長蛇の列が出来ていた。次いつジョアンが来るか分からないし、
まだ30分ほど時間もあったので、列の最後尾に並んだ。「二階でもパンフレットは
売っています」とアナウンスがあった。Tシャツも売って欲しいものだと思った。

Tシャツは白と黒とグレイの3種類があったが、全部買おうと思っていたら、
僕がカウンターに来るまでに、すでに黒とグレイは売り切れていた。
もっとたくさん作って、売れ残ったら通販なり何なりすればいいのにと思った。
涙を呑んで(少しオーヴァーか)、着用用と保存用に一枚ずつ買った。
アメリカンサイズなので、僕の体格ならMだった。小柄な女の人は、
どうすればいいのだろうと思った。

パンフレットも買った。白い表紙に、"JOAO GILBERTO Japan Tour 2003" と
浮き彫りのある、なかなかおしゃれな装丁だった。

買い物を済ませると、自分の席へと急いだ(くどいようだが結果論を言えば、
急ぐ必要は全くなかった!)。

席について、パンフレットを読んでいた。しかし横浜市内を歩き回って
かなり汗をかいたので、汗まみれになったポロシャツを着替えようと、トイレに立った。

トイレに行く途中、階段を下りると、立て札が立っていた。

貼っている白い紙を見ると、「アーティスト側の要請につき、エアコンは切っています」
とか、「開演は遅れる事があります(まさにその通りになった!)」とか書いていた。

ちなみにエアコンを切っているのは、ラテン音楽雑誌 "LATINA(ラティーナ)" の
11月号によると、エアコンがうるさいからではなく、ジョアンが声帯の温度変化を
極度に嫌うかららしい。さすがは、妥協を許さぬマエストロ(巨匠)だ。

これもラティーナによると、11日の東京公演はかなり暑かったそうだが、
横浜はそうでもなくてよかった。

トイレで汗まみれのポロシャツを、買ったばかりのTシャツに着替えた。暖くて、
実に気持ちいい肌触りだった。なかなかいい素材を、使っていそうだと思った。

トイレから出ると、ブラジル音楽のダイニングバー・「カイピリーニャ」(

http://www.geocities.jp/caipitan/home/top.htm

を乞うご高覧)の常連さんの、松下さんに出会った。彼によると、
カイピのマスターや奥さん、そして常連のみんなが、一団になって
座っているそうだ。

ただ僕は、ジョアンをもうすぐ生で観れる事を思うと、緊張の余りとても、
フラフラ席を離れてうろつく気にはなれなかった(再びゴメンナサイ)。

そういうわけで、再び席に腰を下ろすと(一階席のステージから見て左側、
真ん中よりやや後ろだった)、ひたすらパンフを読んでいた。

パンフを読むのをやめて、時計を見た。針は5時を指していた。

ステージの上には、椅子とマイクスタンドが2本、そしてマイクが2本と
モニタースピーカーが、確か2つあるだけだった。

僕は僕のグループ・"Heliotrope" のリードギタリストの堀野慶次と、
最近交わした会話を思い出していた。彼はブラジル音楽を結構知っていて、
カエターノ・ヴェルローゾの「ヴォセ・エ・リンダ(日本語で言えば、
「うるわしの君」とでもなるだろうか)」という曲とかも教えてくれた。

彼は言っていた。「ジョアンはバックミュージシャンは使うのか?」と。
僕はこう答えた。「いや、一人でやるだろう。彼はずっと、そうして来たのだから。」と。

その理由については、僕のつたない説明よりは、パンフレットに載っていた、
オスカー・カストロ・ネヴィスというミュージシャンの言葉を、引用した方がいいだろう
(以下引用)。

「ジョアンのヴォーカルとギターのバランスの精妙さについては話したよね。
あのデリケートなバランスをオーケストラと一緒にライヴで出来ると思うかい? 
まったく不可能だ。楽器が増えれば増えるほど適切なヴォリューム・バランスを
とらなきゃならない。オーケストラともなればとるべきバランスの数は天文学的数字に
なるよ。その上マイクやアンプや調整卓のことまで考えると、一人でのステージが
ベストだと思うけどね。」(引用終わり)

会場に女性の声で、アナウンスが響き渡った。確かこんな内容だった。

「アーティストは、ただいまホテルを出て、会場に向かっております。
大変申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さい。」

会場を、失笑とため息がおおった。まあある程度は、予想していた事だ。

とにかくジョアンという人の行動は、予想がつかないのは僕も知っていた。
詳しくは僕のHP(

http://www.helio-trope.com/

)の、「メールマガジンバックナンバー」の、「Vol.35. ボサノヴァ講座・初級編
(完全版)」
をご参照頂きたいが、彼はその奇行癖でも知られている。
Vol.35のズボンの話も、コンサートの日だったので、開始に遅れたそうだ。
またパンフレットには、2000年にあるフェスティバルに出演したとき、
ホテルの部屋を出た直後に、「違う眼鏡をかけてきてしまったのに気づいた。
戻ろうとしたら、ルーム・キーを部屋の中に置き忘れてきたのに気づいた」ため、
1時間以上遅刻したらしい(ホテルのスタッフに、言えばすむ事のように思うのだが)。

だから、僕のグループ "Heliotrope" のギタリストの堀野も言っていた。
「現れるまでは、安心は出来ないだろう」と。

まあジョアンの名誉のために言っておくと、それは今は亡きホロヴィッツとか
カラヤンとか、そういう巨匠たちについても言える事だが。

ちなみにもう一人のギタリスト・原義人は、「ちゃんと契約があるのだし、
現代なのだから、スッポカシとかはさすがにしないだろう」と言っていたが。

原の言葉通りである事を願いつつ、引き続き椅子に座ってパンフを読んでいた。

5時半頃、2回目のアナウンスが響いた。こんな内容だった。

「アーティストは、会場に到着しましたが、ただいま準備中です。今しばらく
お待ち下さい。」

ため息が再び会場をおおったが、さっきよりは少し安堵が混じっていたように聞こえた。

5時45分頃、1ベルが鳴った。僕の胸の鼓動が、早鐘のように打つのを感じた。

5時50分頃、会場の照明が落ちた。ステージがライトアップされた。

上手から、スーツとネクタイに身を包み、ガットギターを携えて、
ブラジル音楽史上最大の奇跡が、その姿を現した。

ボサノヴァの権化は、椅子に腰をおろすと、ガットギターを抱えた。

ラティーナによると、時はまさに5時52分。

ブラジル音楽の生ける伝説が、ギターを弾いて歌い始めた。

その曲は、忘れもしない "Samba de Uma Nota So" (いわゆる「ワンノートサンバ」)
だった。

彼の何枚ものライヴアルバムで(くどいようだが、僕のHP

http://www.helio-trope.com/

の、「メールマガジンバックナンバー」のVol.35. ボサノヴァ講座・初級編
(完全版)
を乞うご高覧)、何十回、いやことにによると何百回聴いたか分からない
彼の歌と、僕にはそっくり同じ雰囲気に聞こえた。

もしかしたら、それは僕の耳が未熟だからかも知れない。と言うのは、
パンフレットにはこんな事が書いてあったからだ(以下引用)。

同じ歌詞を何度も繰り返しているようでいてそのたびに違えて見せる歌とギターによる
リズムのコンビネーション、「どれが一番好きかな?」ジョアンが聴衆に語りかけて
いるように思えます。(引用終わり)

これはジョアンのディスコグラフィーの、"Joao Gilberto Live At The
19th Montreux Jazz Festival" というアルバムの所の解説文の一部だ。

つまり、同じ歌を同じように弾き語っているように見えても、そのステージごとに、
いや1コーラスごとに、ジョアンは微妙な差をつけているという事だろう。

そう言えば同じような事を、カイピリーニャの常連さんの一人も、
そこの掲示板に書いていた。

この人はパーカッショニストで、ジョアンの全公演を観たらしい。
なかなか気合の入った人だ。


残念ながら、僕の耳はそこまで鋭くはない。

ただ僕は 間違いなく本物の生きたジョアンがそこにいて、今日この場所で、
僕らと同じ空気を呼吸し、そして疑いなく、僕らのためにギターを弾いて歌っている、
その事実だけで、もう何も言う事はなかった。

"Wave" (ウエイヴ(波)), "Samba do Aviao" (ジェット機のサンバ),
"Corcovado" (コルコヴァード), "Adeus America" と、
名曲の数々が演奏されていく。

"Corcovado" (「コルコヴァード」。
リオデジャネイロの観光名所で、キリスト像が頂上にある丘のことだ。

http://corcovado.hp.infoseek.co.jp/pages/abt-corco.html

を乞うご高覧)は、実は僕にとってはとても大切な曲だ。

ここからはしばらく、個人的な話をさせてもらうので、ご興味がない方は
どうぞとばして下さい。

'96年から '97年にかけて、僕はピアノの相棒と二人で、京都や大阪で
ライヴをやっていた(詳細や写真は、僕のHP

http://www.helio-trope.com/

の、「Heliotropeとは?」を乞うご高覧。またこの頃の音の一部は、
「試聴室」で試聴可能なので、もしよろしければ)。

僕も相棒も、ボサノヴァが好きだったので、僕がボサノヴァギターを弾いて、
相棒に「イパネマの娘」や「過ぎし日の恋」を歌わせたり、逆に相棒に、
ボサノヴァのリズムでピアノを弾かせて、"Corcovado" や "Dindi" を歌ったりしていた。

実はこの頃、僕は "Corcovado" のコードを、ギターでどう弾けばいいのか
分からなかった。だから長い間、この曲は僕の憧れの曲のままだった。

またこの曲は、僕がポルトガル語(以下「ポル語」)を覚えて歌った最初の曲になった。
あえてそうしたのは、この曲については英語の詞があまり好きではなかったからである。

実はそれ以外の、元来ボサの曲については(「イパネマの娘」や「過ぎし日の恋」など)、
確か ’00年の夏に、カイピリーニャに出入りし始めて、
飛び入りライヴに出だすまでは、ポル語から逃げまくって、英語で歌っていたのである。
カイピに出入りするようになって、ついに観念したわけだ。
そういう意味で、カイピにはとても感謝している。そしてカイピの存在を、
ボサノヴァ特集で僕に教えてくれた、雑誌 "SPA!" にも。

話をジョアンに戻そう。そういうわけで、ジョアンが "Corcovado" を歌い出すと、
僕は真っ先に拍手してしまった。

彼のコンサートでは、客はこういうメジャーな曲を(他には「想いあふれて」
(いわゆる「ノー・モア・ブルース」)とか)彼が歌う時は、さっと拍手して
さっと止めるのが定番になっている。それは、ライヴアルバムを聴いてもらえれば分かる。

さっと止めるのは、しつこく拍手したら、歌の邪魔になるからだろう。
完璧主義者のジョアンは、それを一番嫌うに違いない。

だからもちろん僕も、拍手は極力短時間にした。

さてコンサートが進むにつれて、僕はある事に気がついた。

ジョアンは、歌以外は一声も発しないのだ。MC(曲の間に入れるしゃべり)は一切せず、
ただひたすら、黙々と、次々と曲を弾き語っていく。

それはあたかも、クラシックのコンサートのようだった(とは言え、クラシックに
弾き語りはないはずだが)。

僕の高校の音楽教師が、こんな事を言っていた。

正確には昔の事なので覚えていないが、「ポピュラーのコンサートでは、歌手や奏者が、
『この曲はこういう曲なんですよ』という事を、演奏の前に解説したりするので
分かりやすいが、クラシックはそれがないのでとっつきにくい所がある」みたいな話だ。

確かに、それは一理あるだろう。まあもちろん、「一曲やって、はいMC。一曲やって、
またはいMC。」というのも、いかにも「素人でございます」という感じで、
余りカッコよくはないが。

ちなみに僕のMCは、しつこいと言われる事もある。

そう言えば確か去年の秋、僕の知人のクラシックピアニストが(FLOPSYさんという。
この人のHPは、

http://rcland.hp.infoseek.co.jp/index.htm

だ。もし宜しければ、見てみて下さい)、チェリストのバックで出るコンサートに行った。

このコンサートでは、このチェリストが一曲ごとにまさにMCをやったりとか、
同時出演した声楽家が、自作の(詞のみ)曲を歌ったりとかしていて、こちらは逆に、
クラシックの人たちが、ポピュラー的なアプローチをするコンサートで、
まあ面白い試みではあった。

きっと今は、だんだんボーダーレスな時代になって来ているのだろう。まあクラシックも
ポピュラーも、いいと思う所はお互い、どんどん取り入れ合った方がいいのかも知れない。

ちなみに先日、五郎部俊朗さんと言う、テノール歌手のコンサートに行ってきたが
(もう一つちなみにこの人の存在は、近くの耳鼻科の先生から教えてもらった)、
この人によると、全然MC(ポピュラーで言う)をやらず、ただ出て歌って消えるだけ
なのは「リサイタル」、MCをやるのは「トークコンサート」と言うらしい
(コンサートの前半は前者、後半は後者だったが、後半のMCでそう言っていた)。

だとすれば、前述のジョイントコンサートも、「トークコンサート」に
なるのだろうか。

またまたちなみにMCで面白かったのは、東京には声帯専門の耳鼻科医がいて、この人も
通っているらしい。クリニックに行くと、スマップやモーニング娘のメンバーとか、
唐沢寿明さんとかと、院長が一緒に写った写真とかもあるそうだ。

だいぶ話がそれたが、ジョアンに話を戻そう。彼がMCをしないのは、もしかしたら
英語がうまくないからかも知れない。どうせ日本人相手に、下手な英語でしゃべっても
余り通じないだろうし、ましてやポルトガル語では、全然通じないという事なのだろうか
(それはその通りではあるが)。

そう言えば、ブラジルでコンサートをやる時は、MCはするらしい(これは
カイピリーニャの常連の、弾き語りのシンガーの人が教えてくれた。この人のHPは、

http://ww35.tiki.ne.jp/~paulin/

を乞うご高覧)。

ちなみに、今回のツアーのライヴアルバムが出たが(東京公演の録音だが)、
少なくとも「コンバンワ」だけは言ったようである。

まあこれは、ミック・ジャガーについても言える事だが、カリスマは
余りしゃべらない方がいいのかも知れない。その方がぼろが出ないだろうし
(ミックとMCについては、僕のHP

http://www.helio-trope.com/

の、「メールマガジンバックナンバー」の、「Vol.26. ポップスの王様にして
生ける伝説、ポール・マッカートニー」
を乞うご高覧)。

さて16曲目、かの名曲 "Desafinado" を歌い終わった後、信じられない事が起こった
(ちょっと「ガチンコ」風だが)。

何とジョアンは、下を向いたまま、動きを止めてしまったのだ!!!!.....、、、。

会場に、戸惑いが漂った。そして、アンコールを求める拍手が始まった。

ジョアンももう、72歳のはずだ。まさか...?!と、一瞬いやな予感が、
脳裏をよぎったりもした。

10分も経っただろうか。ジョアンが再び、ギターのネックに左手をかけた。

そして、これまた名曲、"A Felicidade" を歌い始めた。

僕は気がついた。「ああ、他のアーティストなら楽屋にいったん引っ込む所を、
そうしないだけの事なんだな」と。

僕はよく水を飲む男だから、「よく水を飲まんと続くもんやな」と、感心してしまったが。

"O Pato"、"Sem Voce" 等々、おなじみの曲が演奏されていく。ジョアンは1回目の
アンコールを、名曲 "Estate" で締めくくった。全部で8曲。長いアンコールだ。
ちなみにここまでで、合計24曲。

"Estate" を歌い終わった後、ジョアンは再びフリーズしてしまった(苦笑)。

それはいつまでも、終わることがないようだった。聴衆の手拍子だけが、
空しく響いていた。

時計を見ると、すでに針は8時20分を指していた。次の日は平日なので、
大阪で仕事だったし、新横浜発の新幹線は、確か8時47分だった(もっと遅いのも
あったのかも知れぬが、僕が調べたのはそれが一番遅かった。5時開演の予定なので、
まさかこれだけ遅くなるとは、思ってもいなかったのだ)。

僕に選択の余地はなかった。後ろ髪を引かれる思いで、コンサートホールを後にした。
タクシー乗り場へ走り、タクシーに飛び乗ると、桜木町駅へと急いだ。

駅員に、「この新幹線に乗りたい」と言うと、「東急では間に合わない。地下鉄に乗れ」
との事だった。地下鉄に飛び乗った。

地下鉄の中では、半ば放心状態だった。そして今日のコンサートが、
日祝日の前日だったらと、悔しさが胸を満たしていくのだった。

僕は、心の中でつぶやいていた。「ジョアン、あんたは天才だ。
しかしやっぱり、かなり変だ。」と。

ラティーナによると、ジョアンは一人一人の心に「アリガト」を
言っていたらしい。だから気がつくと、20分経っていたそうだ。

僕にいわせれば、「アリガト」は言ってくれなくていいから、
"Chega de Saudade" "Aquaerela do Brasil" 、そしてかの、"Garota de Ipanema"
を聴かせてくれた方が、100万倍うれしかったのだが(いずれも、アンコールで
やった曲だ)。

新横浜で弁当を探したが、数軒で売り切れていて、やっと何軒目かで、ハンバーグ弁当に
ありつけた。まあ暖かい飯が食えただけよかった。

帰りの新幹線で、ワインのハーフボトルを赤・白と開けようと思ったのだが、
2本目の途中でタイムリミットが来た。

12時過ぎ、家に帰ると、すぐ風呂に入って寝た。


これでおしまい。お粗末でした。